【イベントレポート】「AIがみずからAIを作りだしたとき」ーーそれが真のシンギュラリティの始まり

Date: 2018.06.01
Category: 広報/PR全般
Written by: 梅下 武彦
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目を見開かれるような講演に出会える機会というのは、そうめったにあるものではありません。もちろん、どのような話しであっても、気づきやヒントあるいは確認や確信を得るような内容はあります。
しかし、関心のあるテーマについて、視野を広げ異なる視座までも得られるようなことはまれです。
第2回目(5/13)のシンギュラリティ研究所の集まりは、私にとってはそうした数少ない経験となりました。

この日の基調講演は、米国マイクロソフトにてWindows 95、Internet Explorer 3.0/4.0、Windows 98のチーフアーキテクトを務めたことで知られ、一貫してソフトウェア開発に従事してきた、ある意味では伝説的な人物である中島聡さんです。私は今回、その同氏の話しを初めて聞くというとても貴重な機会に恵まれました。

中島さんは、現在はXevoという自動運転などに関するソフトウェア開発を行う企業を米国シアトルで創業し、今回の講演のために帰国されたとのことで、講演のテーマは「シンギュラリティと自動運転社会」

社会すべてが変わるAIとシンギュラリティ

中島さんは、インターネットが一般社会に登場(1995年)してから最初の10年より、スマートフォン(2007年)ーーマルチタッチによるiPhoneやAndroidーーを日常的に利用するようになったこの10年の方が、私たちにとってずっとインパクトは大きいと述べました。これは、テクノロジーの進歩が、加速度を増していることがもたらしていることで、みなさんも十分に実感していることでしょう。

スマートフォンは常に携帯し、電話、メール、ブラウジング、位置情報だけではなく、ストリーミングによるラジオ視聴やテレビなどの映像(映画)や音楽を楽しむことから消費行動における決済までも含め、あらゆることがこのデバイス一台で完結できる社会なのです。

中島さんによれば、AIがAIみずからを設計しだしたとき、それは人知を超えることになるだろうしそれこそが「真のシンギュラリティの到来」になるだろうという視点を持っています。
その嚆矢となるが自動運転なのです。

自動運転には、下記のレベル1〜レベル5までの段階があります。これは、日本や米国運輸省道路交通安全局 (NHTSA) が定義するもので、現在のテスラなどはレベル3に該当します。

・レベル1:運転支援
・レベル2:部分自動運転
・レベル3:条件付き自動運転
・レベル4:高度自動運転
・レベル5:完全自動運転

自動車だけではなく、街づくりや社会インフラまでもが劇的に変わる

テクノロジー

私たちは、すでにテクノロジーに多くを依存(アウトソーシング)しています。一例を挙げれば、ナビゲーションシステムです。

GPSのおかげもあり、初めて訪問する場所や地域でもそれを頼りにたどり着けるのは便利ですが、逆に道順や道路、街並みなどを知ることがなくなりました。つまり、覚えたり考えたりする必要性がないのです。

レベル5=完全自動運転が実現するのは2025年ごろと言われています。そうなると、趣味で運転するのが好きで自家用車を所有する必要性がある人たちを除けば、コスト負担の大きい自家用車を持つ理由がなくなり、必要なときに利用(調達)すればよい状況になります。
そうした社会、それは人間が自動車を必要とする理由がなくなる社会で、自動車が街に溢れ利用はしていてもそれはサービス経済社会になることを意味し、インフラや街づくりにまで影響を及ぼすことになるのです。

クルマ社会の米国では、オフィスを建てるときにはかなりの広い駐車場スペースを用意する必要があるのですが(州によって法律が異なる)、すでにそうした駐車場が不要となることを見越したポスト自家用車社会に向けた建築や街づくりが始まっているとのこと。

ただし、完全自動運転社会(レベル5)は、人間が運転するより10倍の安全性が担保されないと、そうした社会環境自体は受容されないだろうとも中島さんは述べています。
そうした社会が実現した時には、バスとタクシーの境目は曖昧になり、駐車場がいらず信号機すらいらずに渋滞も解消され、街づくりやインフラ自体にも大きな変化が起こると語ります。

自動運転の実証実験には、大都市ではなくむしろ地方、それも鉄道や路線バスなど足のない地域にこそそうした仕組み(サービス)が必要だし最適だろうと指摘しています。大都市部は交通量も多くインフラの整備は煩雑でコスト負担も大きくなります。
例えば、地方ではスマートスピーカーに「病院へ。緊急!」と話しかければ、病院へ直送するクルマが配車され、「買い物」と話すと乗り合いバスが配車されるようなサービス社会。さらには、一人乗り用の椅子に近いような「パーソナルモビリティー (Personal Mobility)」を手軽にだれもが所有しているでしょう。
ちなみに、米国では自動運転による事故が発生した場合、それはソフトウェア会社の責任が問われるとの話しです。

また、人間に代わってAIがすべてを行うようになったとき、社会のセーフティネットとしてのベーシックインカム(最低限所得保障制度)が必要とされるだろうと述べました。
これは、数十年後にAIが人間の仕事をかなり代行するようになったとき、人間の生活をどうするのかという現実的な大問題があり、それへの解決策として検討されています。

これについては、シリコンバレーのあのY Combinatorがすでに壮大なプロジェクト(実証実験)を開始しています。この実験のゴールは、「無条件でお金を受け取った人のクオリティ・オブ・ライフと仕事へのモチベーションはどうなるのか?」という、ある意味では人間にとっての究極の答えを見つけ出すことです。
実験対象者は、2つの州から3,000人が選ばれ参加しています。もちろん、本プロジェクトにおける金額が妥当か否か、財源をどのようにするのかというさらなる大問題も残されてはいます。

ところで、私が大好きな『新スタートレック(TNG)』(第1シーズン26話「突然の訪問者」)あるいは劇場映画第8作『ファースト・コンタクト』などでも、ピカード艦長が20~21世紀の人たちと接するエピソードがあり、24世紀において人はもはやモノを所有することに興味はなく、お金ではなく人類の成長のために働くことが当たり前の世界だと語っています。

数十年後、ベーシックインカムが実現して生活するためだけに働く理由や必要性がなくなったとき、人間はなにを目的にあるいは生きがいとするのでしょうか。

メディアの歴史とシンギュラリティ

オンラインニュース

さて、基調講演後の小休止をはさみ、個別の連続講座に移動です。今回も、田代さんの講座を受講しましたが、私にとってはメディアの歴史を振り返りながらそれについてあらためて考えさせられるような内容でした。

人間は火を、そして言語を使う動物ともいわれます、同時にメディアを使う動物だと付け加えるべきでしょう。
他の動物は鳴き声やさえずりで直接情報やコミュニケーションをやりとりしますが、人間は他人とのコミュニケーションやなにかを伝えるため、それも広く“なにがしか”を伝えるためにはメディアを利用します。

人類史において、メディアの劇的な変化はこれまで三度ありました。
一度目は、15世紀にグーテンベルクが活版印刷機を発明したときです。それまで手書き写しか木版印刷しかなかった時代から、大量に印刷物(聖書)を発行できるようになりました。それにより、マルティン・ルターの宗教改革につながったといわれています。
二度目は、20世紀におけるテレビの発明です。これにより映像や音声までも伝えられるメディアが誕生し、それまでの新聞、雑誌、ラジオに取って代わりました。
三度目が、インターネットの登場です。テレビと同様に音声や画像まで扱えますし、メール(メッセージ)によるリアルタイムの双方向のコミュニケーションも可能となり、しかもソーシャルメディアの登場でユーザー自身が情報発信できるようにもなりました。

さて、この講座の冒頭、北朝鮮にスパイ容疑で拘束されていた米個人が解放され、首都のワシントン郊外アンドリュース空軍基地に到着、それをトランプ大統領が出迎えたニュースが紹介されました。

CNNニュース映像は、これまでのようないかにもありきたりなニュース番組的なものですが、米国の伝統的な三大ネットワークのひとつABCはトランプ大統領自身が自身のツイッターでいち早く流した映像を利用したことに私は驚きました。
その映像は、映画のように巧妙に編集され音楽まで挿入されているものです。どちらの映像がより人々に訴えるかは、善し悪しではなく歴然としています。
悪い言い方をすれば、戦時下において映画館で上映前に流されていた国威発揚のニュース映像(プロパガンダ)のような印象を受けます。

私たちは、メディアそれも新聞やテレビなど公共性の高いものは、常に中立・公正・公平であると思い込んで(信じて)います。しかし、実際には政治報道でも政権よりだったり反政権よりだったりしています。これは日本だけではなく、オーウェン・ジョーンズによる話題の書『チャヴ〜弱者を敵視する社会』の書評において、イギリスのメディアの情況についても私は指摘しました。

そもそも、むかしから格言のようにいわれている「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだらニュースになる」という有名な言葉があります。これはある意味ではメディア(ニュース)というものの本質を突いているようにも思います。

人は、こうしたメディア報道の印象(操作)にはどうしても弱いものです。そうしたメディアに常に接していれば、人間の思考(思想)が無意識的(否応なし)に形成されます。思考が変化すれば行動も変化をともないます。
今日、なにかを知りたいと思えば検索することで様々な情報(知識)が簡単に手にはいります。知識の外部化です。すべてがスクリーン化した社会——Digital Ambient Societyーーでは、それはさらに顕著になり、自分で考えたり判断したりするのではなくデータ(情報や知識)に基づいてAIの判断に従うような事態、つまり思考自体までも外部化されるようになったとしたら、一体私たち人間はそのときどうなるのだろうかと考えます。
もちろん、それは妄想や杞憂にすぎず、そうした社会の到来はありえないと退けることも可能です。

キーボードを打つ手

さて、懇親会は、飲食が用意されてくつろぎに溢れた雰囲気で楽しい席なので重要です。

基調講演のときに感じたある疑問があり、それについてこの席で思い切って中島さんに質問しました。
AIみずからがAIを設計しだすようにするのも人間なので、最初にソフトウェアを設計する段階でそうならないようにすることではないでしょうかと。
それに対し、法律で禁止することもありえるだろうがそれだけでは避けることは難しく、結局は誰かがやるだろうとの返答は私には十分に首肯しうるものでした。

それというのも、科学者による科学発展のためにという金科玉条と同様、エンジニアの技術発展のためにという“誘惑”には抗いがたい魅力があるからにほかなりません。人間の業や性といってもよいかもしれません。

また、田代さんとの会話で通信社に話しが及んだとき、いまの学生が通信社のことを知らないということに軽い驚きを覚えました。「ロイターによれば」とか「AFP通信の伝えるところでは」など耳にしているでしょうし、わからなければ知りたくなるし調べるはずだと思うのですが。

通信社は、かつては自前でのメディア(新聞)をもっていないことがある意味ではハンデでしたが、現在ではインターネットのおかげもあり自社サイトでのニュースを配信しています。
新聞社のように紙メディアや販売所などの“足枷”がないだけ、むしろ変化には柔軟に対応できかつ世界的な配信網があることもむしろ強みでしょう。

私はメディア事情にとくに通じているとはいえないでしょうが、国内の通信社(共同通信、時事通信)はわかりませんが、海外では通信社と新聞社とでは役割が異なります。前者は、ストレートニュース(事実報道や速報など)を、後者は論説や論評・評論など深く鋭い分析的な記事を扱うものだろうと思います。
また、EU諸国に顕著なのですが、保守系・リベラル系・左派系など、各々のメディア(新聞社)は主張も立場も明確です。

私は新聞購読を止めて10年ほどです。ニュースをチェックする場合、ロイターAFPAP通信さらにはBBCなどの各々日本語で提供されている海外のニュースメディアのサイトを閲覧します。

事実だけを流すニュースであればAIで十分でしょう。しかし、その事実の背後に隠されているあるいは含まれている真実(深層や真相)を分析したり洞察したりするのは、やはり人間の仕事だろうと思います。

今回、私は中島さんと田代さんの話しを聞いて、自分で勝手に接木をするとしたなら、それは「人間が介在しないメディアが現れたとき、それがメディアにとって真のシンギュラリティになる」という、人類史にとって初めて経験することではないかと思ったのです。

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